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「ただ存在するのみ」というコミュニケーション

「ただ存在するのみ」というコミュニケーション

最近、こんな考えを育てている。ただ存在するだけ。 返事を求めず、関係を維持しようともせず、自分の思考や変化を、世界のどこかに置いておく。 相手は見るか見ないかを自由に選べる。こちらからは干渉しない。

この非対称性が大事だと思う。

  • こちらは返事をしない
  • 向こうもこちらを知らない
  • それでも、フォローしていれば「最近こういうことを考えているんだな」「まだ生きているんだな」「変わったな/変わっていないな」と、輪郭がわかる。

会わない、話さない。でもその人の存在は、自分の世界の中にいる。

ポイント 会話より、蓄積された痕跡で理解されたい
瞬間的な交流より、時間軸上の継続的な「存在のログ」に価値を感じる人向け
Twitterは引用OK、リプライNGが相性抜群(だからObsidianやLLMのメモも少しずつ放流中)

これは関係の密度を下げる思想でもある。 現代は「密な接続=良いもの」とされすぎている。親密さ、即レス、双方向性、常時参加。それらを人間的な豊かさの証拠のように扱いすぎ。

もっと低温の接続があってもいい。 熱量の高い交流ではなく、遠くに見えている程度の関係。 話しかけなくても、そこにいるのがわかる。必要なときだけ近づける。

この試みは孤独を美化するものではない。 孤独と過密な接続の間に、もう少しまともな中間領域を作ることだ。

人間は、常に応答しなくても存在していてよい。 誰かに見られるために振る舞わなくてもいいし、会話し続けなければ消えてしまうわけでもない。

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