偏愛が足りない
これから、人間の価値は偏愛を語ることに寄っていくと思う。
命の価値とか、人間として上か下かという話ではない。人が人に何を渡せるのか、なぜわざわざその人の話を聞くのか。そっちの話。
前に、九曲のプレイリストをAIに渡して魅力を言語化させたことがある。返ってきた文章は、プレイリスト全体をそれらしいコンセプトにまとめていた。たぶん大きくは間違っていなかった。
でも、オレが知りたかったのはそこじゃなかった。
歌詞をどう聴いたのか。声色のどこで耳が止まったのか。曲の構成やリズムが、九曲を通してどう変化していたのか。実際にその音を面白がった人間なら、何を拾うのか。
欲しかったのは正しい説明ではなく、偏愛のある説明だった。
知識はもう、かなり安い。検索すれば出るし、AIに聞けば整理までされる。文章も画像もコードも、一定の完成度まで持っていくこと自体は、以前ほど珍しい能力ではなくなった。これから先、正しくて、分かりやすくて、役に立つものはもっと増える。
その中で、人間からしか聞く気にならないものは何だろう。
たぶん「自分はなぜこれを好きなのか」を、本気で語っている話だと思う。
対象はなんでもいい。曲の一秒でも、ゲームの入力感でも、古い道具でも、誰も読んでいない文章でもいい。そんなものを何時間も見て、他の人なら通り過ぎる差に引っかかって、ついには言葉まで作ってしまう。
それを聞くと、こっちの目まで少し変わる。
それまでただの曲だったのに、次からはその一瞬を待つようになる。気にもしていなかった設計なのに、その境界が崩れているかどうかを見るようになる。紹介されたものを好きになるとは限らない。それでも、世界に新しい見方が一個増える。
偏愛を語る人が渡しているのは、対象についての情報だけではない。その人が長い時間をかけて作った「見方」そのものだ。
これが、これから価値になる。
AIも偏愛っぽい文章は作れる。珍しい観点を出すこともできるし、特定の人格や趣味を模倣することもできる。だから「偏愛は人間だけの聖域だ」と言いたいわけではない。
ただ、人が人に惹かれる理由は、出てきた文章の品質だけでは決まらない。
この人は、なぜこんなものを見続けているんだろう。どこまで行ってしまったんだろう。どうしてその話をしているときだけ、急に細かくなるんだろう。
そういう偏りを知ると、その人が見えてくる。
オレたちは普段、それをかなり削っている。役に立つ形に直す。詳しすぎるところを落とす。誰にでも伝わる結論まで薄める。「好きだから延々と話したい」では弱い気がして、仕事や学びや社会的意義に接続する。
でも、有用なものが大量に生成されるようになったなら、その削っていた部分の方が希少になる。
誰でも言える正論より、その人が百回見たものの話を聞きたい。きれいに整理されたおすすめ一覧より、一個だけ異常に好きなものを、本人が我慢できなくなって語り始めるところを見たい。
偏愛を語ることは、自分を変わった人間として売ることではないと思う。売ろうとした瞬間に、反応の良い偏りだけを残し始める。それは結局、偏愛の形をしたマーケティングになる。
たぶん必要なのは、役に立つか分からないまま話すことだ。
長すぎるかもしれない。細かすぎるかもしれない。誰も興味を持たないかもしれない。それでも、自分の中では明らかに大きい。その不均衡を、なかったことにしない。
人間の価値が偏愛を語ることになる、というのは、人間に偏愛しか残らないという意味ではない。
情報も制作物も大量に出てくる時代に、「この人を通ったから、この見え方が生まれた」と思えるものの価値が上がるということだ。
人は、好きなものを語るとき、その対象だけを語っているわけではない。その人が世界のどこを明るく見ているのかまで話している。
オレはそれを聞きたい。
たぶん今、偏愛が足りない。